新年おめでとうございます!
なかなか定期的なブログ更新ができませんが、辛抱強くお付き合いくださっている方々、本当にありがとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年中はちょっとした好奇心からYouTubeの番組や色々なSNSにチョッカイを出してみたのですが、反応は芳しくなく。オールド・メディア?とは違ってSNSはもっと純粋な議論の場なのかと思っていたのですが、そうでもなさそうに感じました。影響力を及ぼそうと考える人が跋扈していて、そのアリーナがテレビ(ラジオ)か、YouTubeかの違い、というところなのでしょう。私が懸念していた外国人労働力導入の問題は、問題や争点はそこじゃないだろう、というところで右の人も左の人も騒いでいました。なんだ、結局外国人と日本人の共生についてはほとんど関心がないのだな、と、半分がっかり、半分は所詮こんなものか、という諦めに近い印象を持ちました。
ということで、初心に帰って(笑)、このブログや王道の書籍/論文出版を続ける形で続けていきたいと思います。改めましてどうぞよろしくお願いいたします!
それにしても、ブログがあるということは私にとっては救いです。いつも思っていることを書籍や論文の形では絶対に書けないからです。移民や難民の問題は人間の心理、感覚的な機微が実は多く関係します。そういったことは、私の研究アプローチでは検証不可能で、アウトプットにできないのです。ですので、何を思うか、ということを率直に綴れるこの媒体はありがたい限りです。
昨年末からいくつか難民の偽装(bogus refugee)について考える機会がありました。行政の立場からは、即刻追放すべき存在です。本当は日本で働きたいだけ、中には犯罪者も多い。そうでなくても本国に帰れない「私的な」事情がある人。結局は自己責任だろう。。。と、背景はこんなところです。時々こういった人たちを弁護する人もいますが、その内容は、「ともかく長く日本にいたんだからいいじゃないか」とお粗末極まりない。本当に弁護人は弁護したいのか、とさえ思う場合も。もちろん、そんないい加減なことではなく、本当に難民性に該当し、かつ議論となるケースは除いています。今日のお話の焦点はそこにはないので。
今日お話ししたいのは、行政側からは「お話にならないケース」として棄却されてしまうであろう偽装難民の悲哀についてです。私がこんなことを書くなんて!と思う方々もいらっしゃるかもしれません(笑)。でも、実はいつもこの問題は頭の片隅にありました。偽装してでも移住先に残ろうとする人、不法入国の形でもなんとか居続けようとする人の抱える人生は一体どんなものなのだろうか、ということです。
昨年、勤め先で「コルベ神父」のエピソードを聞く機会がありました。「アウシュビッツの聖者」として有名なお方で、皆さんもご存知のことと思います。コルベ神父のような方こそ、国外に逃げれば本当の難民で、国際社会が救済すべき人であったけれども、実際に神父様は国内にとどまることを選びました。この話を聞いたとき、私は、今日のアフガニスタンに、シリアに、ミャンマー、中央アフリカ、ベネズエラに、コルベ神父と同じような方がどのくらいいるだろうか、と思いました。国際社会が救済したくてもできない人たちは、多分想像以上にいるんじゃないか、と。
他方で、なんとかして本国を脱出しようとしている人たちは、一体どういう人たちなんだろうか。なんだ、たくさん本やレポートがあるじゃないか、と思われるかもしれません。けれど、多分その記述の中にはたくさんの「嘘」がある。行政側が少しでも対応してくれるように矯正された、意識的、無意識的な嘘です。
国外に移動できるだけの資金がある、移動ができる、ということは、住処を焼かれ逃げざるを得なくなった人たちなどを除いては、移動の「自由」がある、ということになります。けれど、そのまま本国に居続けて満足に暮らせる人たちなのか、というと、多分そうではないのでしょう。そのまま飢えてしまうかもしれない。いつか民間の争いに巻き込まれてしまうかもしれない。危険が全くない状態ということはないのでしょう。そういったカオスから生き延びるために、犯罪に手を染めるケースもあるのでしょう。
そう考えると、偽装難民が悪い人だ、と決め込むことは、どうにも狭量であるように思えてくるのです。行政の方針を変えてほしいと言っているわけではありません。行政の判断の裏にある諸事情に、私たちが思いを馳せる、そういう心の余裕のようなものが今の社会には必要なのではないか、と。
もちろん、私たちが犯罪に巻き込まれるようなことはあってはならないし、そうならないような厳しい取り締まりは必要だと思います。ですが、相対的に貧しい側、虐げられている側の人たちを国際社会が放っておくと、窮鼠猫を噛む、という状態はいつかやってくるのではないかとも思います。テロや、大量難民を脅しに使うハイブリッド戦略は人権を無視した非道極まりないものです。しかし、それをただ非難するだけでは、問題の根絶は難しいのではないか。難民問題の本質は、国際社会が「持たざる人々」を放置していることです。国家が厳しい難民政策を取ることもダメですが、他方で、安易に難民ではなさそうな人もどんどん受け入れなさい、という主張も間違っています。もっと本質的な問題解決策が、国を超えたレベルで必要なのです。このことに一般の人々が気付き、逆に政府を啓発するような世論の形成が必要なのではないか。そのためにできることはないだろうか。今年はこういったことを考えていきたいと思っています。
RinaMatsuさんありがとうございます。私は(国際)政治学が専門ですがご笑覧いただければ幸いです。
世論と政治の関係はタイムラグがあったり、外交など他国との高度な戦略的な駆け引きが必要な場面があったりするのでひとえに語ることは難しいこともあると思います。基本的に民主主義国家では政府が国民の声を全く無視した政治決断をすることはできませんので、RinaMatsuさんが「強硬」と思われた政治プロセスもより長期的な視点からするとそうではない可能性もあります。
ともあれ、世論を政治に届けるには政治家とコンタクトを取るのが一番素直な手段ではないかと思います。
国際法に興味のある者です。調べていたら先生のブログに辿り着き、いつも楽しく読ませて頂いてます。
世論の形成が必要というのは理解出来たのですが、私が調べていると世論が反対でも上が強行突破してしまうという例がありました。そこで疑問に思ったのですが、世論と政治家の歩み寄りとはどの様にするべきなのでしょうか。