皆さまこんにちは!
最近、変わらず多忙で嬉しい悲鳴ですが、それにしても自分の発言をどこかできちんと文章化しておく必要性を感じているところです。実際、私の発言はそもそも雑誌などの媒体に論考として掲載されたもの、あるいは学会研究会などで報告した公のものを使ってはいるのですが、最近SNSなどで、私の名前を引用せずに論旨だけ、しかも前後の文脈を踏まえずにご自身の主張として発信される方が数名いらっしゃるようで少し残念に思っています。 我々の世界ではどの研究者の発言なのか引用するのは常識なのですが、少なくとも大学教授を自認する方がそれをなさっていないということが仮にあれば、それは問題です。私は女性だし軽く扱っていいだろう、と思われているのかもしれず複雑です。少なくとも研究者間ではそのようにぞんざいに扱われることは全くないので安心しておりますが、一度学界を出ると色々な方がおられますので、対応も慎重にする必要が出てくるのですね。。
そんなことをつらつらと考えておりますが、実は近いうちにある政治家の方々と意見交換をすることになりました。そのために資料を作成しているのですが、いくつかエッセンスをここでお披露目しておきたいと思っています。事前に他の方に「私の主張」として使われることのないように(笑)、という思いもありますが、同時に、皆さまとも何らかの形で間接的にであれ意見交換ができれば、という趣旨もあります。
今般の法改正案での論点の一つに、どうやって選ばれる日本をつくるか、という議論があります。外国人受け入れ反対派の人は、そもそも選ばれるような国づくりなど要らないというかもしれませんが、仮に受け入れを規制する話になっても必要な努力だと思います。それは、一部の受け入れ推進派が提唱するような、外国人の入国基準を緩める(ハード面でもソフト面でも)、という方向とは真逆です。つまり、日本人にとって暮らしやすい国にする、ということです。
日本人が暮らしやすければ当然日本の魅力も高まる。先端産業の拠点が集中し、新規ビジネスが起こりやすい。治安がよく街は綺麗で教育のレベルも高い。そして、みんなのお給料が(相対的に)高く、生活を謳歌しやすい。こういった状況が生まれれば、当然日本に来たい、という日本のファンが増えるでしょう。そういった人を呼び込む方に「選ばれる」戦略を組み直すべきです。
同時に、現実には日本は少子高齢化が進み地方での人手不足は深刻、状況は待ったなしであるということもあるでしょう。それへの応急対処が必要なのは致し方ないにせよ、彼らを外国人として扱うのではなく、将来的な我々、新しい我々(New Us)、として受け入れるということを真剣に考える必要があると思います。
この議論、アメリカで数年前から展開されている議論で、Inclusive Weという概念、つまり「我々=共同体構成員」のメンバーをどれだけ増やせるか、というところに焦点が当てられています。提唱者の一人、ロバート・D パットナム教授は、移民(外国人)をめぐる社会摩擦の原因は、彼らが我々と同じようになることを求めすぎるからだ、と主張します。つまり、ネイティブの「我々」と同じである必要はない。でも、一緒に国を豊かにするという目標に向かって協働する新しい「我々」の一員となろうではないか。というこういう主張です。
この議論の面白さの一つは、このパットナム教授、元々は国内政治と国際関係の共振について説いた、2レベルゲームと呼ばれる外交交渉理論の論者なんです。それが、だんだん米国のデモクラシー、社会と国家の政治的関係へと関心を移していらしたということなんですが、私自身彼の業績変遷にはここのところ明るくなく、最近調べていたところ、「え?本当に同じ人?」と思ったくらい(笑)。しかし、ここで強調したいのは、この方(そして同調者)は決して活動家ではなく、また外国人の視点だけに立った研究者でもなく、あくまで受け入れ国家である米国の安定的成長につながるにはどうすればよいか、という観点に立って研究を進めているということ。このアプローチは、日本の将来を語る上でも非常に有用なのでは、と私は考えています。
日本も、新しい我々をつくることで外国人受け入れ政策の成功事例を積み重ねていく。そのプロセスにおいては、一方的な受け入れ拡大ではなく、時には受け入れを制限したり停止したりといった段階も含まれる。しかし、受け入れるか受け入れないか、というその場その場の段階に過剰に反応するのではなく、究極的にどんな日本を作りたいのか、それを議論するということが必要になってきているのではないか。つまり、「シン・日本」の創生をテーマにすべきではないのか、というのが私が最近思うところです。
みなさんはどう思われますか?
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