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オリンピックと難民申請ーウガンダ、ベラルーシのケースについて

 いろいろと物議を醸した2020 TOKYOオリンピックもそろそろ終わりますが、今回私が注目したのは2つの「難民申請」のケースでした。どちらも目を引くニュースだったので皆さんご承知のことと思います。

 一つはウガンダのセチトレコ選手による難民申請です。NHKの報道によれば、この選手は生活の苦しい本国よりも日本で仕事を得たいという理由で合宿先から逃走したとのこと。もう一つは、ベラルーシのツィマノウスカヤ選手による亡命申請をポーランドが受け入れたというロイター報道によるものです。

 2つの難民申請は様々な意味で対照的です。ウガンダのケースは、本人の主張からも明確なように、経済目的による移住希望でした。現行の難民条約(日本も批准国です)では、難民として認められる人の定義が非常に狭く、経済目的による移住は権利としても認められていません。どういうことか、というと、一般にあるひとが難民申請を行うとき、貧しいので他の国で働きたい、とその理由を述べたとしても、それは正当な理由としては認められない、ということになります。

 ただし、そういったケースが100%申請を却下されるというわけではありません。難民申請は希望者本人が主張し、その論拠を提出しなければならないためハードルは高いですが、一度却下された申請に承服しかねる場合、異議申し立てとして再度申請を行うことができます。このとき、弁護士などの協力を得てより客観的な「難民性」を論証することは可能です。例えば、本人はもっぱら経済目的と思っていたとしても、本国が政治的に非常に不安定な状況にあり、また、本人がその民族的特徴や政治的信条のために本国政府から命を奪われる危険があると判断される場合は、仮に本人の証言ではなくとも、客観的な背景事実に基づいて難民認定がなされることもあるということです。

 今回のセチトレコ選手のケースについては、ウガンダ人は確かに長期独裁政権の下で貧しい生活を強いられていることは想像できますが、難民条約に規定されるような難民としてこの方が認められる可能性は残念ながら低いものと考えられます。従って、本国送還という手続きも正当なものでしょう。

 他方、ベラルーシのケースは、条約難民として受け入れられる可能性が非常に高いものでした。ツィマノウスカヤ選手が亡命先として希望していたいくつかの国のうち、ポーランドへの移住に向けて日本政府が(公安を含め)迅速に動いたことはひとまず、日本の難民政策(=難民の保護に向けた国際協力)としては合格点だと言えるでしょう。なお、ポーランド政府はこの選手に対して「人道ビザ」を発給したようですが、この理由としては、ルカシェンコ政権が特定の集団(民族、宗教、政治的信条を持つ集団など)に対して明白な人権侵害を行なっているかどうか、その蓋然性は高いものの未だ国際社会が見極められないということ、そして、何よりも、ポーランドが「条約難民」と認めてしまうことで隣国ベラルーシとの外交関係に及ぶ(悪)影響を読みきれていないことがあると思われます。

 お分かりのように、難民認定とは本質的に外交の一種であります。つまり、ある個人を難民と認めることは、イコール、その個人の出身国を国際的に非難することとなるわけです。

こういった事情をツィマノウスカヤ選手が分かっていたかどうかは明らかではないですが、日本を経由したという手法は有効であったと考えられます。つまり、日本はベラルーシ、ポーランドとも少し「遠い」関係にあり、政治的な文脈があまり介入することなく手続きを行えただろうということです。そういった意味で、今回の日本の対応には、少なくとも咎められるところはないと言える、というわけです。翻って、もし今回の申請者が北朝鮮や中国出身者であった場合、そして、第三国へではなく日本へ亡命申請がされた場合、日本は同様のスムーズな対応ができたか、ということは検討する必要があるでしょう。

 このように、難民申請を庇護国がいかに受け止めるか、そしてそれにいかに対応するか、ということは極めて高度で複雑な外交上の問題なのです。そういう観点からの日本政府への批判はどんどんされるべきだと思われます。ところが、昨今の報道を見ると、非常に的外れな批判が展開されています。今日のYahooニュースでは、難民申請却下率99.9%の“難民鎖国”日本、亡命申請者の強制送還も=韓国報道」と題する記事が掲載されていましたが、日本の難民認定率の低さと、今回の難民申請事案の評価は、全く別の文脈で理解されるべきです。全く関係がない、とは言いませんが、それはこの報道が意図した関係性とは全然違います。つまり、日本にこれまで難民申請を行ってきた人々の多くが、国際的な基準による難民とはかけ離れていたこと、それが地政学(地経学)的な要因によること、そして、オリンピックを契機として、そういった地政学的な要因によらない難民申請が増えつつあることについて我々はもっと理解を深める必要があるのでは、ということです。

 今までは、難民申請中に就労ができるという「利点」を求めて日本で難民申請をする人が多く、それが結果として難民認定率の低さにつながっていました。これは、一つには日本の難民政策のあり方が再検討されるべきであるということに加え(だからこそ先般の入管法改正は国会で通すべき案件だったのです!)、難民審査をする側も、粛々と行政手続きの一環として取り扱えばよかったことを意味します。今後ミャンマーなどアジアでの政治情勢の変化を背景に、また、今般のオリンピックを契機とした、アジア以外の地域で展開される難民案件に日本が対応する場合、外交関係への慎重な配慮を含む高度な政治的判断が関与する可能性は十分高くなります。

 当然、批判や検討もそういった外交的な観点からより客観的に行われるべきなのです。それなのに、依然として難民「行政」(この言い方自体、政治の「政策立案」への無関心が反映されているようで歯痒いです)が入管にほぼ一元的に依存しており、せいぜいこれを広げるとしても厚労省など、難民(移民)の社会統合に関わる部分のみでよい、と考えている外務省や、関連する政治家の方々には是非、この際もう少し広い視野から難民問題を考えていただきたいと思います。どこかよその国で起こっている人権問題にマルチラテラルな協力としてコミットする他は入管案件です、という姿勢は時代遅れになりつつあります。人間の安全保障問題は日本の国内でも起こりうる、という視点の重要性がますます高まっているのではないでしょうか。



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