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リベラル & 反リベラルとの闘い方

新刊が出ました!

勁草書房より「自由主義国際秩序は崩壊するのかー危機の原因と再生の条件」という大胆なタイトルです。一橋大学名誉教授及び上智大学特任教授の納家政嗣先生、そして上智大学国際関係研究所所長の安野正士先生のリーダーシップのおかげで、大変興味深い本ができました。

それぞれの所員が専門とするケースやイシューを取り扱っていますが(アメリカ政治、中国政治、日本政治、米中関係また、安全保障、経済(貿易)、平和構築、国境管理、グローバル・ガバナンスなど)、どれも、これまでのリベラル・デモクラシーやそれを基底に置く国際秩序のあり方に変化が生じていることを指摘しています。是非、ご笑覧いただければと思います。

私は例によって国境管理(人の国際移動)を取り上げました。この分野は、第二次世界大戦後の国際秩序の中で良くも悪くもリベラル派が躍進した領域です。良くも悪くも、という理由は、リベラル派の活躍によって大きく世界が改善されたのと同時に、リベラル派の暴走によって世界が極めて不安定化したためです。


リベラルの活躍、リベラルの暴走

まず、人の国際移動管理に関するリベラル派の最大の貢献は、恒常化する難民や強制移動の問題への国際社会の関心を呼び起こし、保護するための対策を出す必要性を訴えることに成功したということです(誤解のないように、保護に成功したのではなく、保護の必要性を「訴える」ことに成功した、と強調しておきます)。強制移動(forced migration)問題とは、独裁や圧政、内戦や紛争、環境破壊などのために、生まれ故郷に住み続けることができなくなりやむを得ず国内外に逃げなければならない人々がいる、という問題です(このうち、国外に逃げることができないが国際社会の保護が必要な人々は、「国内避難民 (Internaly Displaced Persons: IDPs)」と呼ばれています)。こういう人々がなぜ「難民(refugee)」と区別されるか、というと、「難民」とは国際法との関連においては、条約(一般に「難民条約」と呼ばれています)の定義に合致する状態にある人を指し示し、かつその定義が非常に狭いためです。つまり、戦後世界においては、法的に「難民」と呼べないが国際的な保護を必要とする人々の問題が、無視できないレベルになってきた、ということを意味します。

(なぜ難民の法的定義を狭いままにしておくのか、ということについては、別の機会に詳しくお話ししたいと思いますが、ここでは、ヨーロッパにとって都合の良い体制が結果的にそのまま維持された、とだけ触れておきます。)


さて、難民や強制移動の問題は、元来、一過性の問題だと捉えられてきました。大規模な戦争や対立があってその結果として生まれる特異な存在でした。もともと、難民という言葉はフランス語のrefugierから生まれたとされますが、ここで言うrefugierはユグノーのことです。その後、ソビエト革命によって国を追われたロシア皇帝やその親族など、そして、ナチスにより迫害を受けたユダヤ民族などが代表的な難民であるということは周知の通りです。

しかし、戦後は、一方では旧植民地の独立に伴い、他方では米ソの二極体制に翻弄される形で、アジア・アフリカ、ラテンアメリカ、中東諸国における難民(強制移動)問題は次第に恒常化していきました。内戦が長引いたり、政情が安定しない状態が続いたりする中で、難民(強制移動)問題にいかに先進国や国際社会が対応すべきか、ということが検討されるようになりました。

そのような中、国連専門機関やその他国際機関は、生命の危険に直面する人々を助けるために尽力してきました。実際UNHCRやIOMの現地オフィスで働いている方々は本当に素晴らしいと思います。であるからこそ、トップの判断が重要なのに何をやってるんだ、と思うこともしばしば。現地で働く人々の仕事を無駄にしないように、執行部は襟を正してもらいたいものだと思います(もちろん、素晴らしい人格の方もいらっしゃることは承知しています。私が今お世話になっている、マラソンがご趣味のお方は私が尊敬するリーダーのお一人です)。ともあれ、この話も別の機会に詳しく書きたいと思います。ここでは、こうした国際的な活動がリベラル派の後押しによって次第に人々に認知されるようになり、また応援されるようになってきた、ということを評価したいと思います。


しかし、残念ながら、その反面、リベラル派の行動は今の時点では「行き過ぎ」ではないか、暴走しているのではないか、と思うようにもなりました。今回の本でも触れているのですが、論考の本質的な部分ではないので本の中では膨らませなかったことをここでお伝えしたいと思います。

私の専門領域との兼ね合いで感じるのは、現在のリベラル派の動向は、「連帯」を訴えながらその実「責任転嫁」の国際体制を作り上げようとしているのではないか、ということです。先進国の学者や政策担当者の一部と接して感じるのは、「私たちの国はうまくやっている、それなのにあなたの国はどうだ」とでも言わんばかりの口撃、そして、他国の協力を求めるために、他国を非難しつつ協力体制に持っていこうとする(name and shame)姿勢です。学者については、客観的な立ち位置を保てていない時点で私はあまり評価しないのですが(それでも中には別の部分で非常に優秀な人もいるので、実際はケース・バイ・ケースであることがほとんどですが、それでも、先にイデオロギーありき、という学問姿勢はどうなのかなと思うこともあります)、政策担当者に至っては、それが外交のタクティクスの一つなんだろうなと思います。


日本の本質的な問題

問題は、批判されている側がどのように対応すべきか、ということなのですが、この点日本は何も準備ができていない、という点で歯痒いです。日本は排他的だ、難民の受け入れにも積極的でないーこの程度なら事実そうだと言えなくもなく、ある意味正当な批判だと思うのですが、日本人は外国人に冷たい、とか、難民条約の基準よりも厳しく認定基準を置いている、となると、それは本当ですか?と聞きたくなります。一番辟易するのは、外国人研究者から、日本は難民の受け入れ人数が少ないからもっと受け入れるべきだ、という主張を聞くときです。実際、過去の国際学会において、同様の質問を受けた時私はこう切り返しました。難民受け入れ人数が少ないとリベラル国家ではないのですか?それでは、パキスタンなど、難民受け入れ人数が世界の一、二を争う国はリベラル国家なのですか?と。私が尋ねたところその方は黙ってしまいました。

実際、日本や日本人はどこまで外国人に優しく、また冷たく、また難民に寛容で、また厳しいのでしょう?それは、受け入れ人数の多寡だけで判断できる問題ではないはずです。もちろん、私は日本の外国人労働者や難民受け入れ体制に難がないとは全く思いません。私は公然と技能実習制度は廃止すべき、と言っていますし、難民受け入れについても、もっと人数を増やしてもよいのではと思ってもいます。しかし、現在の難民申請者に対して認定水準を緩めるべき、といった安直な議論には疑問を抱いている、ということなのです。

一番不思議なのは、恵まれない人、生命の危機に直面している人を救う方法は受け入れ以外にもたくさんあるはずなのに、なぜ、受け入れを制限するという話になると突然日本人の国民性を揶揄する意見になるのか、ということなのです。アメリカ人は多様性を受け入れ、異なる価値観を享受するのです、日本人もそうなるべきです、といった考えがひと昔前にありましたが、そういう考え方が今でも国内世論のどこかにある気がしてなりません。少なくとも日本の若者は昔よりもずっと多様性に対してオープンですし、年配の方にしても一般的に外国人に対しては親切なはずです。もちろん、家を借りるのが難儀であるなど問題はありますが(私も海外では苦労しました)、それを一足飛びに「日本人の(冷たい)国民性」として語るのはいかがなものかと思います。


過激なリベラリズムは偏狭なナショナリズムと同様に危険

モノやカネの移動をめぐる議論ではここまで感情が入らないのに、ヒトの移動の問題が倫理や道義といった観点から語られるのはある程度仕方がないことなのかもしれません。しかし、できるだけ感情的な問題と切り離して考えることが、実は必要なのかもしれません。特に学者は、外国人についての問題を取り上げるとき、それがネイティブの人々が抱える問題と入念に比較したうえで評価することに力を注ぐべきだと思われます。そうでないと、私の権利はあなたの譲歩の上に成り立つ、といった、ゼロ=サム的な関係として権利の問題が語られるようになってしまう。それが社会の融合ではなく分断を生む、ということは、ここ数年の米国政治を見るに明らかです。どちらかの側だけに立つ、という姿勢は分断を生みます。そういう意味で、過激なリベラリズムは、偏狭なナショナリズムと同様に危険です。リベラル派は、反リベラルと闘うのではなく、自らの中にある問題に気づき、改善するべきです。危機は「内なる」ものだという認識を喚起したい、という思いで綴ったのが、今日ご紹介した拙考です。まだまだ荒削りなところも多くありますが、建設的な議論のきっかけになれば幸いです。




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