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移民、難民研究者の矜持

相変わらずなかなか更新せずにすみません。みなさまお察しの通り、雑事でバタバタとしておりました。

早いもので、研究者としての道を志してから四半世紀が経ちました。社会人としての選択肢が数ある中で(それ自体恵まれていたのでしょう)なぜ学者を選んだのか。最近Facebookで先輩の投稿を見ていて「これだ」と思ったのですが、なぜ学問をサービスとすることを選んだのか、ということについて、今日はお話をしたいと思います。

移民や難民について関心を持ったきっかけについては以前お話をした通りです。そもそも国際関係に関心があったものの、同時に、一部見られる特権階級意識とでもいうようなものに反感を抱いてもいました(とはいえ、詳しくは書きませんが自らの家系もいわゆる特権階級にかかわるので、決してルサンチマンというわけではありません)。何を言いたいかというと、国際関係、というと軍事安全保障、その次に経済、そして社会的関係は取るに足らないものという序列のつけ方に違和感を抱いていた、というのが事実です。

しかし、他方で、難民や移民の問題が国連などの国際機関で取り上げられているから、といって、それだけの理由で外交の高次元での優先課題になるか、というとそうではない、という現実もよくわかっています。日本は、敗戦国であったという苦い経験からどうしても国連を神聖視しがちです。国連は確かに世界の中で最も虐げられている弱い人々に寄り添う姿勢を明確に打ち出しており、それに賛同することには何の問題もありません。しかし、細かく見ていくと、(読者のみなさんは既に承知と思いますが)、国連内部にも利権構造があり、その中で利益を得ようとするロビー団体の行動がある、いわゆるUN politicsがあるということも事実です。私はそのこと自体が悪いとは思いません。なぜなら、様々な意見を代表するdelegationが意見をぶつけ合い、妥協点を見出すというプロセスこそが健全と思うからです。

私が最も嫌うのは、特定の団体の意見の反映にすぎないのに、あたかもそれが普遍的正義であるようなふりをする人々やそうした人たちの意見表明です。なぜ嫌うか、というと、それは公平な土俵で戦っていないから。自分たちの意見が絶対的に正しい、それを理解できない人々は文明的に劣っている、というような姿勢を取る人たちは、普遍的真理とされている概念や価値観の再検討を怠っている、という意味で怠慢にも思えます。

移民や難民の研究をしていて感じることは、このような再検討のプロセスを怠りながら、自分は正しい、という妄信の下に研究を続けていることがないだろうか、という(自身に対しても適用されうる)問題提起です。みなが幸せに、危険からできるだけ離れた状態で暮らすことが肝要であるのは、誰でも分かりきったことです。しかし、そのためにどういった方策が最も効果的なのか、どのような順番で、どういった政策のシークエンスが有効なのか、ということについての議論が必要です。

移民や難民保護についての高邁な提言を聞くたびに、彼らは木を見て森を見ず、なのか、それとも分かっていながらポジション・トークをしているだけなのか、ともやもやします。あまり個人攻撃をしてはならない、と思うのですが、きれいごとを並べている人々がマスメディアに取り上げられることは、あってよいとは思うけれど偏った世論を構成するという意味では害悪と思います。

私がこだわりたいと思うのは、アウトプットをいかに美しくするか、という観点です。それは、薄っぺらいきれいごとを述べるのではなく、確実な実証に基づいた、より的確な現状理解です。(国際)法やルールが存在するということ自体についての情報提供はよしとして、なぜそれが徹底されないのか、という観点を掘り下げた分析が紹介されない、というのは不幸だろうと思います。学者や言論人は、こういった点にもっと真剣に取り組まないといけない。個人としては活動家であってもよいけれど、仕事は別次元でのアウトプットでなければならないのだろう、と思います。

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