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難民問題への「古くて新しい」アプローチ(1)

更新日:2020年11月2日

 新型肺炎によるパンデミックは社会の弱者に最も深刻なダメージを与えます。国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)によると、2020年8月14日現在、7950万人*が強制的に母国を離れざるを得ない状況にいるとのこと、このうち何人がパンデミックの影響を受けているだろうかと沈鬱な気持ちになります。ある程度普通の暮らしができている私たちでさえ生活の不便さを感じていますが、多くの難民は比較にならないほど不便な生活を強いられています。むしろ、便利さの問題ではなく、生命の危機こそが彼らが抱えている問題でしょう。実のところ、今日の難民の多くは近隣の、受け入れのための設備やインフラが先進国ほどには整っていない国に逃れているのが現状です。2018年において、世界で多くの難民を受け入れた国Top10は、トルコ、パキスタン、ウガンダ、スーダン、ドイツ、イラン、レバノン、バングラデシュ、エチオピア、ヨルダンです。先進国はドイツだけです。ドイツは2015年秋の大規模なシリア難民受け入れ以降国内政治が揺らいでいたわけですが、それでもその3年後も寛大な受け入れ体制を維持しているのですね。素晴らしいこととは思いますが、同時に、ドイツの国内政治における耐性(resilience)と国際協力の場理における外交実践とのバランスを取るのは難しいことと思われます。

 ともあれ、多くの国においては、難民は残念ながら、不十分な環境での生活、たくさんの人が密集した、ときに不衛生なキャンプでの生活に耐えなければなりません。それだけでなく、難民には、ホスト国の指示に従うという以外の選択肢がありません。例えば、報道によれば、エリトリア難民はエチオピア政府によるキャンプの統廃合に伴い、より劣悪な環境での生活を余儀なくされているということです。新型肺炎は途上国に経済的にも大きな打撃を与えるため、その皺寄せがこういったところにきているということなのでしょう。

 過去から現代に通じる難民問題というのは、人が理由はどうであれいのちが脅かされるような事態に直面したとき、それを自分の力で克服できないような政治的あるいは社会的な縛りがあるという状態のことを言うのだろうと思います。人が食べていくには働かなければならない。しかし働いても食べていけない場合、または働くことそのものができない場合は、商売替えをしたり、新しい農地に移ったり(開墾したり)といったことができるという「最低限の自由」がなければ、人は生きていけないわけです。難民が抱える苦難は、単に貧しいことではなく、「貧しさや生きることへの困難から逃れる自由」が許されない状況のことです。

 そんな状況にある人たちを救いたい、と思われる方がいらっしゃると思います。そして、実際に慈善活動を国際的に展開されている素晴らしい方々がいて、また組織が存在します。私は素直にそういった人々の行為に敬意を表します。そういった心ある人が地球上に一人もいなくなってしまったら、なんと悲惨な世界になるでしょうか。

 もっとも、実際の世界はそれほど純粋な人間行為に溢れる社会ではありません。ただ、考えていただきたいのは、それは何も、人が慈善行為を真の利他的な行為としてではなく、何らかの自分の利益につながる行為として行っているというだけのことではありません(もちろんそういう理由の人もいるとは容易に想定できますが、私は、それで結果的に難民を救えるのであれば必ずしも悪いことだとは思いません。)ここで言いたいのはそういう話ではなく、人間は難民問題以外にも国際交流をする事柄を抱えているという、国際社会に対してのいわば総体的なものの見方との兼ね合いで難民問題を考える必要があるという話です。

 前述のように、人が「貧しさや生きることへの困難から逃れる自由」を奪うような国家は概して糾弾されなければなりません。したがって、ある人を「難民」であると認めることは、本質的には、その人の出身国を他国が非難するということになります。通常は友好的な関係を構築している国家間でこのような問題が生じたらどうなるでしょう?お察しの通り、そこには厄介な外交問題が発生します。これこそが古くて新しい難民問題のもう一つの側面です。次回は、これに関して、困っている世界中の人々を救う、という行為と、特定の国家を糾弾しその責めを負わせる、という行為は別ものだというお話をしていきたいと思います(次回に続く)。


* 人数について誤記がありました。お詫びして訂正いたします。


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