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執筆者の写真Midori Okabe

入管(難民)法改正案について(2)

 入管法(以下難民法)改正案が現在参議院で審議中ですが、これについて、従来とは少し異なる形で広く注目を集めるようになってきているようです。端的に、議論が深まる、という意味で良いことだと思います。もっともありがたいのは、ネットメディアを通じてこの問題をとても分かりやすく解説してくださる方に巡り合えたことです。

 文筆家の原英史さんとジャーナリストの須田慎一郎さんが出演されている「別冊!ニューソク通信」というネット番組(YouTube)を見ました。私は普段、あまりこの問題に関しての報道は目にしないのですが、このほどひょんなことから原さんと知り合うこととなり、直接難民、外国人問題について意見交換をする機会がありましたので、興味深く拝聴しました。

 元官僚でいらしたということもあり、問題の本質を的確に捉えていらして流石と思いました。個人的には、私が常々うったえていた難民や移民をめぐるさまざまな問題を分かりやすい語り口でメディアに載せていただいたことに大変感謝しています。

 まず、難民法改正については、現状が政治家や政府の裁量に依存するところの大きい法体制であるが故に、利権の温床になりやすいという指摘が非常に重要だと思いました。マクリーン判決が引き合いに出されていましたが、本来どのような、またどのくらいの規模で外国人を受け入れるか、滞在を許可するかということは国家主権の範疇にありますから、ガチガチの法制化はそもそも馴染まない。今回の難民法改正も実は極めて緩い改正にすぎないと私は評価していますが、それはそれで当然だ、という見方もできるわけです。他方、問題は、なぜ難民を含む外国人の受け入れについての法規制が曖昧か、というと、それは国家の安定や秩序維持を目指しながら、国家社会の発展を促すために外国人の受け入れを行うという趣旨に基づく政治家の判断が期待されているからにほかなりません。つまり、本来外国人の受け入れは、利権構造から離れた、大所高所からの政治判断の対象となるべき問題であったということです。

 しかしながら、グローバル化が進み、労働力や人の越境移動がより密接に国民経済と関連し合うようになると、外国人往来のコントロールが直接どこかの産業や経済団体の利害と結びつくという事態が生じる。それに伴って、政治家も、自分の選挙区や後援団体が求める課題の解決と同じようなロジックで外国人問題を捉えるようになる。これは、何も日本に限ったことではなく、移民立国であるアメリカでも見られる構造です。原理的にはどの国でも起こりうる構造だとさえ言えるでしょう。アメリカのケースについては、私がよく論文で引き合いに出すテキサス大学(オースティン)のG. P. フリーマンという政治学者は、移民(難民)問題は「クライアント・ポリティクス」であると論じます。これは、より利害が一致するグループの声が反映されやすいというM. オルソンの集合行為の理論が移民問題にも適用できるとする議論です。例えば、一般大衆は、政治イデオロギー、経済政策、社会、文化政策などに対してさまざまな考え方を持っているので、なかなか団結しにくい。反対に、シングル=イシューを掲げた結果できるグループは、当然意見が統一的であるため対外的な発信がしやすいということになります。こうした結果、意図せずして特定の移民(エスニック)グループと産業界、あるいは政界(の一部)が結託しやすい構造が生まれるというものがこの主張です。

 フリーマンがこの議論を最初に展開したのは1990年代半ばで、まだディアスポラ政治や移民、難民支援団体の持つ政治的な力が相対的に弱かった時代でした。翻って、現在は、産業界だけでなく、移民や難民支援をする団体が、ある種の「業界」として政治的な力を強めることができる環境が生まれています。この点に着目した学術論文も海外でちらほら見られるようになりました。この重要性は、難民や移民の権利を擁護するための国際連携、あるいは(国際)NGOなどその組織体が、国際協力のあり方が決まる際に一つの行為主体として機能するようになっている、という視点を新たに導入した、という点にあります。これは、アカデミアにとっても良い傾向です。よく、「世界では」とか、「国際社会では」といった主語から始まる言説がありますが、その中には、普遍性がないのにもかかわらず、あたかも普遍性があるかのように教条主義的な説明をすることで、国内政治に変化を与えようとするものも含まれている、ということを批判できるようになるからです。

 ここでもう一つ付け加えておきたいのは、私は国際的な連帯の元に移民や難民支援を行う人々が間違っているとは決して言っていません。また、彼らが自らを「正義だ」とする主張も、彼らの行動の合理性という観点からは誤りではないでしょう。ただ、彼らはあくまでロビー集団の一つに過ぎないのです。このような客観的評価がメディアを通じて公にならない、ということが日本の問題だと思います。

 彼らが「国際的な照準は○○だ」、そして「それに倣わない我が国は遅れている、非人道的だ」という主張は主張として認めることが大切ですが、それを政府側がいかに受け止め、受け入れられる部分とそうでない部分についていかに説得的に議論しようとしているか、また、中立的な立場から有識者がこの問題をいかに見ているかが、我が国では十分に客観的に報道されていない。やはり、残念ですが既存メディアの報道姿勢の欠陥として批判せざるを得ない、ということになるかと思われます。

 そう申しつつも、最近、私の元にもいくつかの既存メディアの方々がコンタクトを下さるようになり、この問題の重要性が少しずつ共有されていることを感じて嬉しく思います。まだまだ語り尽くせないので、後日、第三弾として連載しようと思います。

 



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